自分の弱さの確認。


現実世界は決して分かり合えない、(あくまでも共感した気がするどまり)の世界として存在する。
そしてそんなぬるい、劣化した世界(麻痺した感性で共感、)に生きることに反抗し、アートする。
アートは、そんな現実世界のアンチとしてあるということはアートをする同志で共感できるがその中身は、決して共感し得ないむき出しの実存世界。
自分にしかわかりえないし、さらにいえば明日の自分には今の作品をもう理解できない。
そんな孤独に耐えうる、そんな強さがほしい。
俺は弱い。
昔は実存世界に近いところにいたから、(麻痺するということ自体を理解できなかった)もうアートそのものだった。
実存世界から逃げ続けて、麻痺することが現実世界にいるための手段と知った。(または”?”を先送りしつづけること)
麻痺し続けるのはつらい。
実存世界に生きるのは怖い。現実世界に居続けたい。
あくまでもその境界で生き続ける、
それが答えだとして、(それ自体矛盾している)
・・・
ああ、おれは麻痺せずにお金がほしいんだ。
で、できればわかってほしいとも思っている。
俺は弱い。
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高橋留美子展、加古里子展、崖の上のポニョを見に行った。


高橋留美子展、加古里子展、崖の上のポニョを見に行った。
高橋留美子展、加古里子展、原画のよさは印刷にするとつぶれるんだなと思った。
この劣化具合は結構激しい、高橋留美子のほうはまだ、それを前提に描いている感じがするけど
加古里子の方は原画の方がぜんぜんいい、ぼかし、にじみはとくに再現されていない。
加古里子の絵本には作家特有の自己主張を感じない。
”いやらしさ”みたいなもの、そういう物を感じない。
子供がどうしたら喜んで興味をひきつけられるのか?
それことだけを考えているように見える。
それがとってもうらやましく思える。
でもそこで思う、自分に正直なのが大事だ、自分に偽りなく表現して、
それが、こういう自己を滅私した作品だったら、と。
ぽにょはウチの姫の初めての映画となった。
2時間弱もつかな?と思っていたが、ずーと集中してみていた。
その集中している姿がかわいらしくて、自分が映画に集中できないくらいだった。
なので大人の感想はどうでもいいのだろうなと思う。
子供がこれだけひきつけられた、この事実はすごいよ。
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自分の居場所探し


自分の居場所探しをしてるんだね。といわれた。
半分あっているけれど、もう半分ぴんとこなかった。
昔から理に従って行動できない。
自分の感情にしたがってしまう、支配される。
人の気持ちが理解できない。
自分が何をしたいかもわからない。
親に現実から逃げているといわれて、”そうなのかな”と自分でも思ったり、
それにしては何でこんなに苦しいんだろう。楽に生きられないんだろう。
と思っていた。
大人になってわかったことは、麻痺することで楽に生きることができるということ。
でもそれは仕事に自分を忙殺させたりすることだったりする。
それは世間的には逃げでなく、現実と戦い、大人としての責任を果たしているように見える。
でも麻痺することはやっぱり”逃げなんだ”。
自分をだまし続けられなかった。
一見、無意味なアートに熱中し、でもそれをすると苦しくて、それでもしないよりは
自分が生きている実感がある分だけ、生きられる。
創ることが、生きることの前提、生きるということと同義。
言い方を変えれば、これで精神のバランスを保っている、社会と世間と他者と、かかわりそのもの。
自分の居場所、
環境で考えればいろいろ希望はある。
でもどういう自分の状態がいいかを考えれば、今の状態でも最高なのかもしれない。
麻痺に浸るのをやめて、一見無意味なアートを信じて、何の見返りも期待せずに
創るということ、その状態が最高なのかもしれない。
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